「死にたい、死にたい」
私が苦しく悲観的になった時、たくさん口にしてきた言葉です。
私は誰からも必要とされていない。
私は、誰かに迷惑をかけるだけの有害な存在だ。
自分には、いいところは一つもない。
何の特技も無い。
見た目が言い訳でもない。
性格も悪い。
頭も悪い。
私は、自分を否定できる材料は、沢山持ち合わせていました。
けれども、自分を肯定できる材料を、ほとんど持っていませんでした。
先生は、そんな私を肯定してくださった方です。
先生は、そんな私に神様の愛で接してくださった方です。
摂理に来た18歳当時、私は死ぬ事を願っていました。
自分で名付けるなら「自己否定の病」がとても深刻で、役に立たない無能な私は、
生きるに値しないと思い詰め、自分は死んだ方が良い人間だと思っていました。
一方で、「死んだ方がいい人間」が生きていくなら、人のため、社会のために生きなければならない、
自分の幸せなんて求めてはいけないと思い、自分のせいで害を与えてしまった人への「償い」を
真剣に考えていました。
自己否定の延長線上に「懺悔」と「償い」ということを考えていた時、私は、聖書を読むようになりました。弟が高校でもらったという聖書を私が貰い受けていたからです。
聖書を読むようになってすぐ、私は、摂理の先輩と出会い、聖書を学ぶようになりました。
神様が、時を合わせて導いてくださったことに、感謝しています。
私は、哲学を先攻した人間でしたが、私にとって、聖書の話を聞く時間は、ものすごく!
楽しい時間でした。
既存の教理の不合理性に疑問を持たれた先生ご自身が、聖書を何千読もされながら、ただひたすら「聖書」に基づきながら聖句一つ一つを自ら確かめられ、全ての疑問を解き明かし、偽りの無い確実な真理として自信をもって教えてくださる、神様の真理だったからです。
「理性的にいって、この言葉は合っている。」その連続でした。
私は先生が教えてくださる聖書の言葉を聞き「真理は実在する」と感じ、それだけでもとても救われる思いがしました。
(もし現実世界に真理はないというならば、私は悲嘆し、虚無に陥ったでしょう。)
また、「神様があなたを愛している」と何度も教えてもらい、神様の愛に触れ、心がとても温かくなり、
嬉しくもありました。
しかし、私には、「神様の愛」ということが、一番受け入れがたいものでした。
なぜなら、自分を否定することが染み付いていて、「自分は誰かに愛されるだけの要素は何も無い」
「まさか私を愛しているなんて。ありえないだろう。」と思い込んでいたからです。
「自分は嫌われて当たり前。邪魔者にされるのが当たり前。だって私はバカだから。」
大学のサークルでの出来事、
幼少期の出来事、
両親との関係、
自分の生き方を振り返ってみると…、
様々なことがからまって、自分を否定する材料が身近にありました。
私には、自己否定が馴染んでしまっていたので、私を肯定し、愛していると言う言葉に違和感を覚え、
その思いを受け止められるだけの器がありませんでした。
器が壊れていると、いくら水を注いでも、一向に溜まりません。
摂理に来た後の自分は、まさにそんな状態でした。
人間の認識は、恐ろしいです。
「観を間違うとお棺に入る」と教えてくださった先生の言葉通りだと感じます。
その私に、先生は毎週、根気づよく神様の言葉を送り続けてくださいました。
神様の愛に触れながら、祈りながら、私の精神は、次第に癒されていきました。
しかし、私は、「先生」という方を信奉するつもりはなく、聖書の言葉とずれているならすぐにでも指摘してやろう、とも思っていた人です。
もしも、自分の何かを満足させるために聞き心地の良い言葉で人を集めて自分の名誉のために労しているというなら、確かめてやろう、とも、ねじ曲がって考えてもいました。
その私に対して先生がされたことは、そんな私をそのまま包んで、愛してくださったことでした。
先生は、ご自分を現される方ではありませんでした。
いつも神様を愛する愛が、一直線です。
神様を信じるようにと、私たちが、私が、永遠に幸せであるようにと、いつも説教で、時に厳しく、時に愛情深く、ユーモラスに、何よりも真実に、人生のことを教えてくださいました。
その他、私が先生を確かめてやろうと思って感じたことは、
自分の名誉欲を満たすためなら、手を痛めながら、一日2〜3本のボールペンを書きつぶしながら
この8年、説教の御言葉を書き送るなんて、とうていメリットもないし、続けることはできないだろうということでした。
また、一日に何時間も、全世界と各民族、各個人のため、早朝から深夜まで祈り神様に願い求めることは、愛がなければ、苦行であると言わざるを得ません。
摂理に来てからも「死にたい」という気持ちを抱えていた私に対しても、ある時説教で、
「苦しくて死にたいと思っている人、私のところに来なさい。私が救ってあげる。」とおっしゃってくださり、まさか、「責任を持って」そんな言葉を話せる人と出会えるとは思っていなかった私には、その言葉が人間の言葉に聞こえず、神様が話されているのを感じ、心から肩の荷が降り、涙が流れました。
生きるに値しないと思い込んでいた私の人生が、価値があると教えてくださったのは、
他でもない先生です。
先生の愛は、神様の愛で、命をそのまままるごと愛される愛です。
私は、摂理に来て、10年になります。
今年(2015年)になって私はようやく、自分に課した自分なりのルール、すなわち、
「私は幸せになってはいけない。自分の幸せのために生きることは悪だ。自分は役に立たない無用な人間だ」という考えを、否定できるようになりました。
それは、長い歳月をかけ、先生が私と関わり続けてくださった故であり、
先生が、私にとって安心できる居場所を作ってくださったからであり、
死にたいと思っていた私が生きることを、心から望んでくださったからです。
ようやく私は、自分自身が「神様の最高の作品」であり、「祝福として」自分の命をいただいたのだと、
悟ることができました。
間違った考え、不幸の連鎖を生み出す思考回路から抜け出すことは容易ではありませんでしたが、
やっとスタート地点に立てたと感じています。
私が真実に言えることは、
今私が生きていられるのは、先生のおかげだということです。
先生が、私の生きる理由になってくださいました。
どんな本音をぶつけても受け止めてくださる、そんな人に出会いました。
先生が、私の居場所になってくださいました。
命の貴重さを、教えてくださいました。
先生は、私の親以上、恋人以上の方です。
私にできる「神様への償い」は、幸せに生きることだと、今は心から思えます。
先生が、私の命を、命がけで救ってくださったと、真実に告白します。
心から感謝しています。