生活のキセキ

最後まで私を諦めなかった神様

私が聖書に出会い、教会に通うようになってから今年で12年目になります。

最初の7年間は神様のことがなかなか悟れなくて苦しみました。

先生(鄭明析牧師)のことがよく分かりませんでした。

なぜみんな先生のことを信頼しているのか理解が出来なかったし、

神様を信じる信仰心もほとんどありませんでした。

祈ることも、聖書を読むことも、御言葉を聞くことも、苦痛でした。

よく7年もそんな状態で教会に通えたなと自分でも思います。

ただ教会のみんなに対する情と、これまでの7年を無駄にしたくない、

何かがここにはあるのかもという微かな思いで居続けました。

だから、教会に通っても自分の好き勝手に、自由気ままに生きていました。

教会のみんなと集まって何かするのは苦手で、家でテレビを一人で見るのがすごく好きでした。

賛美は苦手だけど、世の中の音楽は好きでした。

礼拝よりも世の中の仕事を優先し、礼拝よりも自分の趣味を優先していました。

神様も信じられず、そんな状態で教会に通っていたので、大変な目に遭うとすぐに私は人生の道に

迷いました。

そして「もう、教会に通うのをやめてしまおう。私は自由になるんだ。」と思いました。

その日は、私が誕生日を迎える一週間前で、ちょうど水曜礼拝の日でした。

「こんな感じで誕生日を迎えるのか。私、何だかみすぼらしいな…」と思いながら、水曜礼拝の帰り道、

1人とぼとぼと家に向かって歩いていたところ、教会のあるメンバーから

「調子悪そうだな。どうしたの?」と聞かれ

「もう摂理を出ようと思っている。7年いたけど何も変わらなかったし、教会に通うのは疲れた」と正直に答えました。

そのメンバーは、自分がどのようにして信仰を持つようになったのか、天との経緯を延々と一時間近く、道端で夜の11時近くまで話し続けました。

正直内容はほとんど覚えてませんが、「この人やたら必死だな」とだけは感じました(笑)。

そして最後に「摂理を出てもいいけど、最後にこの御言葉を実践してみてから出るか決めてみたら?

『何があっても感謝すること』という御言葉。それでも何も変化しなかったら摂理を出ようが、

教会に来なくなろうが、いいけれど、最後にこれだけはしたら?」と言われました。

そこまで言うなら、と最後にその御言葉を実践してみました。

そうすると、その当時に私が悩んでいたことが解決され、いろんなしるしが起きました。

また、感謝をし始めると、過去に神様が助けてくださった様々なことが徐々に思い出され、感謝の祈りが少しずつ出来るようになりました。

感謝しながら涙を流すようになったのはこの頃からです。

神様に出会い7年経ち、ようやく

「御言葉を実践した時にその通りになるんだ」と悟ることができました。

もちろん信仰は一日で成されるものではないので、

一気に目に見えて私が変化したわけではありませんでした。

その後も世の中を優先した生活からはなかなか抜け出せず、それでも神様に繋がろうと不器用なりにもがきながら、私が行なった分、

いいえ、それ以上に神様は悟りを与えて私を少しずつ少しずつ変化させてくださいました。

今思えば、私が長年悟れなかったのは、

自ら祈ろうとせず、自ら御言葉を聞こうとせず、自ら聖書を読もうとしなかった、

つまり、努力やもがきを一切しなかったのです。

また当時、道端で一時間話してくれたメンバーの必死さは神様の必死さだったのだと気付いたのも、

数年前でした。

私は今も足りないことは多く、日々悔い改めることは多々あります。

でも、過去の私とは心が本当に違います。

苦労しても私を育ててきて下さった神様の愛で、今私は神様を信じ、喜びで生きているのだと確信しています。

こんなに苦労して育ててくださったから、自ら私自身をもっと磨かないとと思います。

宗教に偏見を持ち続け、なかなか信仰を持つことが出来ず、いつも迷走していた私を掴んでくださった神様に、本当に感謝します。

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