私と神様との始まりについて書きます。
時は2001年9月11日夜。
私は帰宅して、1人でテレビの前にいました。
アメリカのテロ現場が中継されていました。現場は騒然とし、混乱と傷つき泣き叫ぶ人々たちを見ました。
「あああ、人々が大変なことに・・・!」
本当に衝撃を受けました。
しかしその瞬間、「今一番悲しくつらいのは神様だ」という考えが来て、
涙がどっとあふれてきたのです。自分でもびっくりしました。
「人々のこのような姿を一番見たくないのは神様だ。
人間をあまりにも愛して、この地も人間も、とても美しく豊かに創造してくださり、
平和に、喜び、幸せに生きる姿を見ることを願った神様、
あまりにも愛が大きくて、その喜びを分かちあいたくて、背景となる地球万物すべても、
あまりにも美しく創造したのに、、、それが崩壊し、人々が傷つき混沌とし・・・
こんな姿を見たいはずがない・・・神様・・・泣いてるんじゃないか・・・どうしよう・・・」
涙が止まらず、なんとか神様の心を慰めたくて、泣きながら夜通し祈りました。
聖書を学び始めて、2カ月になろうという時でした。
それまで私は、お祈りするということも慣れなくて、
代わりに、日記のように神様宛てに感謝のメッセージなどを書いていました。
そんな私が、その夜初めて、ひとりでにあふれてくる涙とともに、切実な心で祈ったのでした。
恐らくこれが、自分の心が神様とくっついてしまった日だったのではないか、と思います。
表現が難しいですが、なんの予想もなく、しかも衝撃的に実感し体験でしたから、
自分でも否定できません。
勿論、この一回ではなく、ここに至る2カ月間の過程、もっというなら幼少期からの過程の中で、
経緯が様々あったのですが、決定打はこの時だったと思うのです。
私は、神様を信じずに、考えもせずに生きていました。
そして、人に言われるからといって動くタイプの人間でもなかったし(笑)、
人に言われたからといって神様の存在を信じられるものでもありません。
しかし、偶然のようでありながら、必然的な出会いをしたのだと思っています。
分かってみると、神様の存在は否定できません。
でも、認識しなければ、その存在を実感することができません。
私も、神様を知らなかった時には、その存在を認識できませんでした。
けれど、だからといって、神様がいないわけではありませんでした。
知ったので、知ることによって認識するようになったし、神様に会うことができたのです。
その道・道案内が正確で、正しく認識できるなら、誰もが会うことのできる神様です。
ところで、私は、友人を通して聖書を手にするようになりました。
多少抵抗があったはずなんですが、その時、
「読んでもみないで『変だ』と言ってる自分も変だ」と思ったのです。
それで、「もし変な本だったら捨てればいいし」とも思いながら、早速買って読んでみました。
すると、本当に宝箱のように知恵が詰まっていました。とても明快で、矛盾のない御言葉でした。
「私、結構いろんなことやって頑張って生きてきたつもりだったけど、
実はほんとに何も知らなかったんだな!」と思ったのが正直な感想です。
様々なことについて、無知から目が開き、抜け出してくるようになったのです。
みことばで物事の核・根本が明かされるので、複雑になっていた私の内外の世界は、
すっきりと整理されました。
そして、自分の人生の目的が分かったから、散らばっていた心が集まって、強くなりました。
また、自分にとっての答えをもらうと同時に、神様について少しずつ知るようになりました。
そして、神様の心を感じるようになりました。
この地球上で起こってきた歴史の中に、神様の息づかいを感じ、
とても深い愛と心情の世界で、神様と会うようになったのです。
神様の目と手がすべてのところに生き届くので、私の関心事は増え、世界が広がりました。
これが、神様について正確に学んだ結果です。
私は、神様について最高によく教えてくれる先生に会ったのです。
先生に会って、まず神様に感謝したことがこのことでした。
神様について最高によく教えてくれる人に会えたこと!
聖書も神様も、適当に曖昧に学んだなら、私は到底信じられなかったと思います。
神様の真実な願い、愛、喜び、悲しみ、様々な心情を、簡単に知ることができるでしょうか。
神様と共に生きること―先生の生を通して見たし、それが、尊く美しく良いものだと実感し、
人として生まれた喜びと甲斐を感じるから、この道を行きながら、続けて挑戦するのです。
あまりにもはっきりと神様を教え、自らの実践によってあらわしてくださり、実感できるようにし、
私自らも神様に会えるように橋渡ししてくれた先生。
感謝します!
全ての人に知らぬ間にともにし、愛を注ぎ続けていらっしゃる神様の片想いの眼差しが、
1人でも多くの人の目とピッタリ合って、お互いの心が晴れる素晴らしい出会いの日が
訪れること、そして新たな喜びの生を掴まれることを願ってやみません。