「明日、長崎に行くなら、必ず原爆資料館に行くべきだよ」
鹿児島で出会った青年は、私にそう言いました。
私は当時23歳。大学で洗礼を受けたけれど、「イエス・キリストが好きだ」というだけで、教会にはほとんど足を運ばないクリスチャンでした。
そんな私が先生と出会い、摂理の人となった経緯を紹介しようと思います。
2011年の初夏、私は東京から、西日本の国立大を軒並み受験するための旅に出ていました。
その最終地点は長崎大学。
6月24日、長崎大の受験が終わったその足で、さっそく原爆資料館を訪れました。
美しく青空が広がる暑い日でした。
資料館に入って、しばらく見て回りました。すべてがショックで悲しかったのですが、特に浦上天主堂の展示の前に来た時でした。私は、悲しみの余り崩れ落ちそうになりました。
浦上天主堂は信徒が真心込めてコツコツと長い時間をかけて建てた美しい聖堂でしたが、爆心地の近くに建っていたため、ほぼ原型を留めぬまでに破壊され、当時聖堂にいた全員が亡くなられました。
焼け残った遺品を前に、文字通り涙が止まらず、泣き疲れて資料館の大事な展示を最後まで回ることができないほどでした。
「明日は必ず、浦上天主堂に行こう」
そう決めました。
6月25日、その日は少しだけ雨がぱらつく曇り空の日でした。
私は浦上天主堂に出かけ、聖堂で手を合わせました。
浦上天主堂の前には下り坂があるのですが、その途中に、被爆した石像が並ぶ一角があります。私は被爆像の前でひざまずき、目を閉じて祈りを捧げました。
すると、坂の上、私の右上側から二人の若い女性たちが降りてきました。
話しかけられそうな雰囲気を感じたのですが、その時、私は誰とも話したい気分ではなかったので、左を向いて背を向けようとしました。
しかし、左側は行き止まりでした。
今になって思えば、行き止まりで本当に良かったです。
女性たちは私と話してみたくて、声をかけるタイミングを伺っていたそうですが、そのタイミングで本当に良かったと思います。
女性たちと話をしてみると、一人(以下Aさん)はその日の飛行機で東京に帰るということでした。
「私もなんですよ」と言って話を聞いてみると、奇遇にも同じ便ではありませんか。
「空港でまた会いましょう」と言って、連絡先を交換しました。
後から聞いたことですが、女性たちはその日は別の場所へ行くことにしていたのですが、雨が降ったので急遽浦上天主堂に行くことに変更したそうです。
雨が降って本当に良かったです。
夕方、空港でAさんに再会しました。Aさんは、瞬間瞬間、「感謝します」と口にしていて、清らかさが滲み出ていて、「なんて清らかな人なんだろう」と感動したし、「信頼できそうな人だ」と思いました。
搭乗を待ちながら、家族のことなど話し、Aさんもクリスチャンということだったので、信仰の話題になった時でした。
Aさんの口から、
「聖書の封印を解いた人がいる」
という言葉が飛び出したのです。
私は衝撃を受け、
「なんですかそれ?!是非聞きたいです!」と身を乗り出しました。
実は私は以前、大学で「イエス様がかっこいいから」という理由で前述のように洗礼を受け、聖書の通読にも挑戦したのですが、ちんぷんかんぷんで挫折していたのでした。
だから聖書の封印を解いた人がいるなら、是非会いたかったのです。
そう、その人とは、私たちの先生、鄭明析牧師です。
私はその一言で心を掴まれ、聖書の勉強会に参加するようになりました。
先生が教えてくださった聖書の内容は、明快で、もともと大好きだったイエス様への愛を、さらに燃え上がらせるだけでなく、寂しくてたまらなかった私を寂しさから解放し、生きるビジョンを与え、世の中の悩みから解き放つものでした。
毎日、夢中で聖書の勉強をして、摂理の人となりました。
振り返ってみると、ここまでつづったすべてのことのどれか一つでも欠けていたら、今私は摂理の人になれず、寂しく思い煩う日々が続いていたかもしれません。
このような奇跡の連続は人間には起こせません。すべての過程に神様が働かれたのだと思います。
先生と私を出会わせてくださった神様に感謝します。
そしてまた同じように、神様は、そして先生は、この文章を読んでいるあなたとの出会いを待っていらっしゃいます。
あなたが願うならば、必ず、奇跡のような愛であなたを迎えてくださるでしょう。