信仰のキセキ

人間が生きる意味を、聖書を、正しく解釈して教えてくれた

私が摂理を選んだ理由は、人間が生きる意味を、聖書を、正しく解釈して教えてくれたから。

そして、教えてくれた先生が真実な方だったからです。

私は、人間はどうせ死ぬのに何のために生きているのだろうかと考えてきました。

大学生になり、現実社会に希望を見いだせなくなった時に、「もうちょっと生きたら、死のうかな」なんて考えたりもしていました。

私にとって、人間の生きる意味が見いだせないと、ずっと生きているのがむなしくつらいだけでした。

そんなとき、あるきっかけで友達になった子に誘われて、町に普通にある教会に行くようになりました。

その子が通っていたから、その子のことを良く知りたいと思って、なんとなく行ってみました。

そこにいる人たちは皆イエス・キリストを愛し、希望に満ちた表情で、とても優しかったのを覚えています。またゴスペルも歌うのがうまかったです。

その教会で聖書を教えてもらうようになりましたが、「イエス様はあなたのために死んでくださったんだよ」って、笑顔で言われた時、あんまり理解できませんでした。みんなイエス様を愛しているなら、その愛する人が死んだという事実を笑顔で言えるだろうか。私たちのため、一人の人が死んだのに、自分自身に責任がなかったのかとか、間違っていたことがなかったかとか反省しないのだろうかと。

また、ある文章が4つくらいあって「これ読んでみて」と言われて、読んでみだら「これであなたの心にはイエス様が入ったから、もう心配しなくてもよい」と言われました。私はまだイエス・キリストについて何にも知らなかったから、自分の心を乗っ取られた感じがしました。そこにいる人たちはとても良い人たちだったけど、何か根拠のない信仰のような気がして、こんな感じなら、もうキリスト教と聖書には絶対かかわらないと決心して、連絡を取るのをやめました。

それから、5か月後くらいに摂理に出会いました。たまたま知り合った大学の先輩が聖書を開いて話をしてくれた時、「聖書って自分に関係のある本なんだ」とわかりました。ちゃんと解釈してくれたからです。ずっと変わりたいと思っていた自分、生きている意味を探していた自分の答えをくれる本だとわかりました。そして、この機会を逃したら、私は一生変われないとその瞬間、直観で感じました。

それから、聖書を毎日学びました。聖書で話される一言を生活で実際にやってみると、自分の性格や生きる姿勢が変わるのを感じました。生きる意味も教えてもらいました。自分の力ではできないことも神様が助けてくれるのを感じました。もちろん、聖書の話を行うことはそんなに簡単ではないし、今まで生きてきた自分という存在を、よりよく変化させるのも大変だけど、教えてくれた先生が、実際に簡単にやってきたことはない、21年も自分を磨いてきたと言うから、私もがんばろうと思えました。

先生は先生の感じたこと、疑問に思ったこと、努力したこと、失敗したことを隠さず私たちに話してくださるから、透明感があり信頼できました。また。過去に実際、経験し、成されてきた聖書の話をされるから、聖書という存在もただの歴史の本という認識はなくなりました。

学んでいる途中、ふと「私は本当にこの団体にいていいのだろうか、だまされているかもしれない」と疑ったこともありましたが、以前よりも変わっている自分を見ると、聖書や神様は否定できなかったし、先生の代わりに教えてくれる人たちも私のために時間を割いてくれ、お金もとるわけでもなく、何ら悪い要素がみあたらなかったので、「やっぱりここは大丈夫だ」と確認しました。

いつも先生は、ただ信じるな、確認しなさいとおっしゃります。確認しなさいと言えることは本物の印だと思います。細かく見ても、聞いても、すべてが合っているから、正しいという確信があるから言えることだと思います。

私は摂理に来て、自分の目で、耳で、感覚で、理性で、体験して、確認して、本物だとわかったから、摂理を選びました。そしてこれからも摂理で生きていきます。

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