私が摂理を選んだ理由は、「生きる目的はここにある」とはっきりと悟ったからです。決して「良い人たちがいるから」でもなければ、「良い話が聞けるから」でもありません。「生きる目的そのものがここにある」と悟ったからとしか言えません。悟るというと難しく聞こえるかもしれないですが、「悟ったから、誰がなんと言おうと、これは真実だという確信は絶対に変わらない。」ということです。

摂理に来る前の私は、平和な家庭で生れ育ちました。アイデンティティを形成し出す15歳ごろから、自分がどうしてもいきたい高校があり、そのために命をかけて勉強して、命をかけた甲斐あって無事に合格できました。しかし、高校に入学してから「命をかけて頑張りたいと思えるような目標」がなくなったことに虚しさを感じるようになりました。これといったものが見つからず、心が虚しいので死にたいという考えさえ生じました。「いつか、この心理状態から解放されるきっかけ(衝撃的な出会いとか)が来るかもしれない。」と希望を持ちたい心と、「その衝撃的な出会いのために私は何を準備しておけば良いのかが分からない。」と自分がやるべきことがあるはずなのにそれが何か分からない感覚がありました。

大学に入り「何か自分の人生を変える衝撃的な出会いとかあるかな」と期待しましたが、そういう人は皆無でした。

大学3年生になり、就職について本格的に向き合わざるを得ない時期に突入しました。そんな時期になっても、私が期待する「衝撃的な出会い」というものはなく「このまま社会人としてやっていけるのだろうか。」という不安が出てきたりもしました。もちろん、優しい友人や、優しい親、優しい先生はいるのですが、どこか満たされない感覚が残っていました。

「衝撃的な出会いやこの辛い精神状態を解放してくれるきっかけなしに、このまま生きるのは限界だ。自殺しようか。」と思いましたが、「でもやっぱり、生きているからには生きる意味があるはずだ。」という考えがありました。そして「神様に聞けば生きる意味が分かるかもしれない。神様にどうやって会えるのだろうか。神様を本気で探しても会えなかったら、その時はもう私は死のう。」と決心するくらい本気で神様を探し求めるようになりました。

摂理ではない他の宗教にも誘われて、そこにも行ってみましたが、私の探していたものは見つからず、どこか満たされない感覚は消えませんでした。

大学3年生の夏休みに、とあるきっかけによって、これまでに出会ったことのない魅力的な女性と知りあうようになり、その女性を通して摂理の存在について知るようになりました。

そこから摂理で御言葉を学ぶようになり、御言葉には愛の問題、進路の問題の全てを含めた人生の問題の答えがあると思いました。御言葉を学ぶにつれて自分の問題が一つ一つ解決していくことを実感しましたし、「自分の人生の問題が解決できる場所は摂理だけだ。」という確信があるので、摂理で御言葉を学び始めてから3年以上が経ちましたが、御言葉を学ぶことだけは一度もやめたいと思ったことがないどころか、私には御言葉なしに生きることは一切考えられません。