摂理に出会った2000年6月、私は大学3年生でした。
高校3年生で進路を決める時、私には特に目標がありませんでした。ただ漠然と、おもしろそうに思える心理学でも勉強してみようかな、親元を離れてみたいな、というくらいの気持ちで、両親が勧める大学進学を決めました。そして、運良く、自分の実力よりは高めの、東京の大学の社会学部に入学することができ、多くの人たちがそうであるように、大学生活に期待をふくらませて上京しました。

初めての一人暮らし。何もかも自由であるという開放感はありましたが、家に一人でいる寂しさと、身の回りのすべてのことを自分でやらなければならない大変さも感じました。自分一人を律して管理することが、当時の私にとって簡単なことではありませんでした。疎ましく感じた家族が、初めてありがたく感じられました。

私は、次第に学校に行かなくなりました。寝続けては、隣の本屋で数時間立ち読みをするような日々を続けました。目標を持たずに大学に入った私は、何のために勉強をしなければならないのか答えが出ず、勉強に対するモチベーションが上がりませんでした。また、大学での希薄な人間関係も嫌でした。サークルの新歓コンパに行った時、衝撃を受けました。次々と合唱されるコールに合わせて一気飲みをする人たち。酒に酔って、初対面なのに互いの体を触り合っている男女。そして、その関係はその場限りで、親しくなったようでいても、飲みが終わって酒が抜ければ、また他人同士という人間関係。「何なんだ、これは?」と思う日々でした。普段の人間関係も、本当の親しさで接するのでなく、うわべだけで、とても虚しいのです。

私自身も人間関係が苦手でした。自意識過剰で、人にむやみに迎合するのは格好悪いと思っていて、初対面の人と接しても、自分と合わないところや良くないところばかりが見えてしまうような人間だったためです。

自分に自信が持てませんでした。自分を好きになれませんでした。自信が持てないから、良く見せようとして値段が高くて個性的な服を着たり、自分の個性を持ちたくて、様々本を読んだり、映画を見たり、多くの人の話を聞いてみたりしました。また、自分に自信が持てないから、異性から愛されることを願いました。その愛と認められることによって、自信を持ちたかったのです。

しかし・・・どれも、願った通りにうまくいきませんでした。どんなに高い服を着ても本当は自信がないし、本も映画も旅することも人の話も、自分の核を完全に作ってはくれませんでした。情報があまりに多すぎて、どれも正しいようにも思えたし、あるいはどれも間違っているように思えました。そして、異性も、私を本当にわかって命を懸けて愛してくれる人はおらず、変わらない愛もありませんでした。

本当に、生きるのが苦しかったです。絶望的な孤独感に襲われました。人間にとって、自分を認め愛することができないことと、自分を真実に愛し理解してくれる人がいないという事実と認識は、地獄のような苦しみではないでしょうか。「何のために、こんなに苦しい思いをしながら努力して生きるのだろう。今コロッと死んでしまった方がよっぽど楽ではないか」という考えに至り、死の世界の淵を覗き込むようになりました。
もう自分としては全ての手を尽くし、限界でした。そして、人に対して予防線を張っていた私が、心を開いて人と接してみよう、と考えが変わるようになったのです。藁にも縋る思いでした。

私が摂理の人に会ったのは、まさにそんな時でした。私は、摂理と出会った時のことを思い出すたびに、神様は本当にいらっしゃるということを改めて確信します。その時でなければ私は摂理に来られなかったと思うからです。

摂理の御言葉を聞き、私がどうして産まれて何のために生きるのかということ、私を誰よりも真実に大きな愛で愛して下さる存在が誰であるのかということ、人間として生きる中で何が善で何が悪であるのかということ、私がどのような姿に自分を作って行けば良いかということ、異性との愛が一体何かということ、など、私が本当に喉から手が出るほど欲しかった人生の問題の答えを全て「はっきりと」教えていただくようになりました。私は、この問題が解けなかったら、正直、生きて行けなかったと思います。死んでしまったか、死んだように残りの人生を生きたことだと思います。

摂理に出会って15年が経ちました。私は一度も摂理から離れたいと思ったことはなく、年が経つにつれてますます、幸せだ!という心と、本当に摂理に来ることを決めて良かった!という思いが深まるばかりです。
最後に、もうひとつ、私が摂理を選ぶ決定打になったエピソードをお伝えして締めくくりたいと思います。

摂理は、世間でとても悪く言われていますね?私も2001年、偶然インターネットで、摂理に対する悪評が書かれたサイトを見てしまいました。その時はまだ摂理にきたばかりで、先生とは1度、良くわからずお会いしただけでした。その悪評を読んで、「私が今まで実際に見て感じた摂理はとても良いし、私自身良い方に変化しているし、幸せに感じている。でも、本当に、先生がどういう方なのかはっきり知りたい」と思い、沢山祈るようになりました。そのように祈ってから、再び先生を日本でお迎えする機会が来ました。

その日程の中で、先生が祈って、ある耳の聞こえない摂理のメンバーの耳が聞こえるようになるという、聖書の中でイエス様がなさったような奇跡が起きました。それを見て、そこにいた誰もが「先生って本当にすごい・・・」という眼差しで先生を見つめていましたが、そのような群衆の前で先生がなさったことが、もっとすごいことだったのです。

先生は、「これは、私の力でしたことではない。神様が私を通してされたのだ」と神様のことを証されながら、渾身の力をふりしぼるように、「ハレルヤ!」と歌いながら天をほめたたえられたのです。それは、群衆の目を意識せず、ただ神様だけに向けられた讃美でした。それを見ながら、「この方は、自分に人を従わせて自分が栄光を受けようとする方ではなく、ただ神様を証し神様を正しく教え神様を愛して仕えるように私達を神様と繋げてくださる方なのだ」とわかり、この方に心を決めてついていって大丈夫だ、と本当に安心したのです。

私が摂理を「選んだ」理由・・・私が自分で選んだようだけれど、私が選ぶように「させてくださった」のです。誰が何と言おうと、正しく、幸せなこの道を見出し歩めるようにしてくださった神様と先生に心から感謝申し上げます。