私にとっての信仰は、
“さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである”です。

これは、聖書の中にあるへブル人への手紙11章1節にある聖句で、私が信仰を持つきっかけとなった聖句です。

私が信仰を持つきっかけがあったのは、東京大学の院生の時でした。日本の最高学府である東京大学の大学院通っていながらも、何をしても自信がありませんでした。そのような毎日を送っていた時、父親が入院する、大学の研究が上手くいかない、就職活動で何十社受けても勤め先が決まらないと、自分一人だけの力ではどうにもならない問題が目の前に山積みとなり、未来に希望を持つことができませんでした。目の前の課題から何とか抜け出したいと、親や友人、教授に相談して助けを求めましたが、私の状況を理解してくれず、助けにはなりませんでした。

そんな失意の東大の院生活を送っていく中、とあるきっかけで牧師から聖書を教えてもらう機会がありました。牧師から学んだ聖書の話では、聖書には人間がより良く生きていくための法則が書いてあり、大きくしなさいという事柄と、するなという事柄が書かれていました。そして、しなさいという根拠と、するなという根拠もはっきりと知ることができ、一つ一つの事柄について納得しながら学んでいくことができました。

こうして聖書を学んでいく中で、牧師から困ったことがあれば神様にお祈りすれば良いよと伝えられ、へブル人への手紙11章1節にある聖句を紹介していただきました。他に頼るものがなかった私は、聖書から学んだ通りにひたすら自分の問題が必ず解決されると信じて切実に祈りました。勿論、数日だけでは変化がありませんでしたが、諦めずに続けて続けて何度も繰り返して祈りました。

すると、1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月と諦めないで続けて祈っていくと、徐々にですが変化が見られました。まず入院していた父親の体調が回復していき、退院するようになりました。また、大学院の研究でも何が課題となっているのかを把握して分析する知恵が湧き、研究がはかどるようになって、諦めかけていた修士論文を提出して修了することができました。そして、就活に関しても自分でも予想していなかった新しい業界を攻めることで就職先が見つかると、自分の考えだけでは絶対に解決できなかった問題が全て解決されるようになりました。何よりも、聖書の言葉を実践しながら問題が解決される過程を通して、自信のなかった私が初めて自信を持つようになりました。

しかし、ここで大事なことは正しく聖書を学ぶ必要があります。聖書を一人で読もうとすると、時代が2000年以上前に書かれているため、難しいです。一人で全ての内容を読んで理解するのは、不可能に近いです。だから、聖書を正しく理解するためには、正しく教えてくれる人に会って教えてもらう必要があります。私も、正しく教えてくれる人に出会って、正しく理解することができました。多くの宗教に関する問題も、聖書を正しく理解できていない誤解からだと、私は思います。聖書にも無理矢理な解釈をする人は滅びるとはっきり書いてあります(ペテロの第2の手紙3章16説)。

最後に、私にとっての信仰についての話に戻ります。へブル人への手紙11章1節を紹介させていただきましたが、このへブル人への手紙11章1節に一言加えることで、改めて私にとっての信仰とさせていただきます。
“さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。そのためにも、正しく聖書を教えてくれる人に出会って、はっきり学びなさい。”