私が摂理に出会ったのは、社会人になって間もない頃でした。

日本は経済的に「豊か」なはずなのに、世の中を見渡すと胸が痛くなるような問題ばかりで、根本的な解決のためには何が必要なのだろう?と考えながら悶々と過ごす日々が続いていました。

学生時代は語学を専攻する傍ら、専門外の本を読んだり、NPOやNGOの活動に参加をしたり、留学をしたり、目の前の機会をたぐりよせて、自分なりにあらゆる可能性を模索しましたが、問題の大きさと多さのキリのなさに幾度となく「限界」を感じていました。

それでも自分の問題意識から目を反らし、社会の「主流」に流されることに違和感を覚え、無力だと分かっていても自分が動くしかないという思いで、学生生活を過ごしていました。

そんな「先が見えない」状況の中、様々な活動を通して、これからの時代を牽引する思想は何だろう?という、ひとつの疑問が芽生えました。

価値観が多様化し、一体人間にとって何が正しくて、何が間違っているのか、すべてが正しく、間違っているかのような曖昧な答えしか見出せない現代社会において、明確な基準を説き、人々をあるべき姿に導いてくれる思想は何だろう?

色々と考える中で自然とこのような問いが芽生え、この基準が曖昧なままでは、自分がこれ以上、何を行なうにしても前に進むことは困難だと考えるようになりました。

卒業論文では近代思想を取り上げ、歴史的な思想の流れをつかむうちに、時代ごとに「中心」となる思想があることが分かりました。

文明が進むにつれて、人間が「豊かさ」を追及する度に生まれる矛盾を補完し、人々を正しい方向へと誘う思想が必ずあり、今の時代にも、そのような思想を伝える人がいるのではないか?と考えるようになりました。

そしてそのような人がいるなら、自分も会いたいと強く思うようになりました。

それが、私にとって鄭明析先生でした。

2012年、友人を通して、摂理に出会いました。

鄭明析先生の御言葉は、自分自身の生き方、強いては人や社会がこれからどうあるべきかのビジョンについて明確な「答え」を与えてくれ、これまで読んだどの本も、どんな人も解決することのできなかった問題を解いてくれるものでした。

そして私にとって、自分が会いたいと思っていたその方が、鄭明析先生だということを確信しました。

現在は、一社会人として信仰生活を営んでいます。

何のために生きるのか、働くのかという問いを抱えながら、何となく流され「無気力」と言われる人々が多い中、私は生きる目的をはっきりと見出し、迷いのない道を進むことができています。

今後、自分の人生がどのように変化してゆくのかは未知数ですが、「道」は神様に委ね、御言葉と離れることがない限り、「幸せ」は保障されているのだと感じます。